Radfahrers Nachtlied

ドイツの自転車競技選手・アンドレアス・クレーデンを中心とした自転車ロードレースと、極々たま~にクラシック音楽やその他のテーマに関する雑文

佐村河内 守の作曲とされていた交響曲について (2月7日追記・再追記あり)

佐村河内 守の(作曲とされていた)交響曲第1番が2010年に東京初演(?確か関東地方での初演だったと思います)された時、おそらく「佐村河内 守」という名前だけでは客の入りが不安だったせいか、最初にモーツァルト交響曲第41番「ユーピテル」をやり、その後で「佐村河内 守」作曲の交響曲第1番を第2楽章はカットして第1、第3楽章だけが演奏されました。
これはかつてブルックナーの8番が1958年にカラヤン/ヴィーン・フィルの来日公演で演奏された際(一説にはこれが同曲の日本初演だったそうです)、当時は日本人には無名だった「ブルックナー」とやらでけでは客の入りが心配だという理由で前座(?)としてモーツァルトの小夜曲が演奏されたのと似ていますね。

それ以前に佐村河内氏の自伝「交響曲第一番 闇の中の小さな光」は初版が発売されていたと思いますが、私は読んではいませんでした。未だ読んでません。今後読もうとも思わないでしょう。ランスの「ただマイヨ・ジョーヌのためでなく」と全く同類の本になってしまいました。
私がこの東京初演を聴きに行こうと思ったのは、2008年の広島での日本初演について、一部のネット上で大絶賛され話題になっていたためです。佐村河内氏が中途失聴で全聾であるといった情報はネットで伝わってきましたが、それについては「お気の毒だなぁ」とは思ったものの、そんなことは関係なく、ただ素晴らしいと評判の音楽が聴いてみたかったためにチケットを買って池袋に出掛けたのです。

そして、そこで演奏された交響曲は、かつて当ブログでも取り上げたことのあるエゴン・ヴェレスの第1交響曲にも良く似た、重苦しく厳粛で真摯な後期ロマン派の進化形ともいえる素晴らしい音楽で、しかもヴェレスの1番を2倍以上に拡大したような大作だったのです。

演奏終了後に杖をついて舞台に登場した佐村河内氏に、私は心からの拍手を送りました。それは、ただ純粋にこの日演奏された交響曲が素晴らしかったからであり、中途失聴とか全聾とかは全く関係ありませんでした。
ランス・アームストロングに圧倒されたのも、癌を克服して自転車競技に復帰した、ということよりも、旧東独の科学が生み出した(???)超人ヤンや我らがクレーディを捻り潰す魔神のような強さに畏怖したからです。

その後、「佐村河内 守の」交響曲第1番のCDが発売されて大いに売り上げを伸ばしましたが、私は何故か買う気が起きなかったのです。「耳が聞こえないのに作曲をするベートーヴェンの再来」みたいな売り出し方が何だか胡散臭かったからかもしれません。

さて、5日の「報道ステーション」でも「ニュース23」でも、コメンテーターが「最初から『合作』とか『共同制作』と言っていればこのような問題にはならなかったのでは」などと言っていましたが、クラシック音楽のことを全く解っていない発言だと思います。
ラフマニノフの『パガニーニの主題による狂詩曲』はラフマニノフの作品なのであって、通常、パガニーニラフマニノフの「合作」であるとは看做されません。レーガーの『モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ』も、レーガーの作品であってモーツァルトとレーガーの合作とはされません。
報道ステーション」で流された映像に出てくる一枚のペラ紙に書かれた図形楽譜モドキから、あの長大な大編成の膨大な総譜が書かれたのだとすれば、それは『パガニーニの主題による狂詩曲』がパガニーニでなくラフマニノフの作品である以上に、『モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ』がモーツァルトでなくレーガー作品である遥かに以上に、あの交響曲佐村河内守の作品ではなく新垣隆の作品であると言って良いものです。

今後もしあの交響曲のCDが「佐村河内 守の」交響曲第1番ではなく、新垣隆交響曲第1番として発売されるなら、私は間違いなく購入するでしょう。
願わくば、新垣隆氏が今後あのような長大感動巨編の交響曲をあと8曲は書いてくれることを期待しています。(wikipediaの「佐村河内守」の現時点での版には「《交響曲第3番》2007年当時制作中」とあるので、これは新垣隆氏が既に3番を作曲中と考えて良いのかもしれません。)
もっとも、ゴーストライターだったからこそ、あのような時代錯誤的大交響曲を書いたのであって、新垣氏自身はもっと「現代音楽」的なものが書きたいのかもしれませんね…

(2月7日追記)
「この交響曲を絶賛していた人達はどう釈明するつもりだ」とかいう意見も出ているようですが、頓珍漢な意見だと思います。「ゴーストライターによって書かれた」ということと「作品の質」とは全く関係がないからです。
週刊誌によれば、新垣氏には「あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者なら誰でもできる、どうせ売れるわけはない」という思いがあったそうですが、これも別に「手を抜いて適当に書きました」ということを表明している訳ではありません。(←これ、Wikipediaを鵜呑みにして書いちゃったんですが、実際に週刊誌読んだら、「あの程度の楽曲だったら、現代音楽の勉強をしている者なら誰でもできる、どうせ売れるわけはない」という発言は交響曲についてではなくゴーストライターを依頼され始めた頃の映画やゲームの音楽についての発言であるように読めます。原典に当らずネットの情報を鵜呑みにする危険性を再認識しました…反省。 このカッコ内再追記分です。)

ただ、新垣氏が書きたいのはやはり「現代音楽」のようで、今後、時代錯誤的交響曲が量産される可能性はなさそうですね…。