Radfahrers Nachtlied

ドイツの自転車競技選手・アンドレアス・クレーデンを中心とした自転車ロードレースと、極々たま~にクラシック音楽やその他のテーマに関する雑文

1998年ツールのドーピング報道について。

宮崎駿の最新作「風立ちぬ」はまだ観ていないのですが(トイレの近い体質の私は映画館で映画を見るのが嫌いなので、観るとしたらブルーレイが出てからになるでしょう…演劇やオペラは幕間に休憩があるのでまだよいのですが、始まったら終わるまで出られない映画が一番厳しいのです。…余談が長くてすいません)、零戦の開発に携わった戦前の航空技術者、堀越二郎の半生を描いたものです。これについて宮崎駿は7月16日付の朝日新聞で、
「自分は若い頃は戦争責任があるかないかと言う見方をしていた。しかし後の世から断罪するのは簡単。一方で、零戦を作った優秀な技師として二郎を祭り上げる動きもあります。いずれも、あの時代の空気を肌で感じようとしていない」
「一つの時代を遠くから見て、灰色だとか決め付けることは間違っている」
と語っています。
これってそのまんまドーピング全盛時代の選手のドーピングについても言えるんじゃないでしょうかね。現在からの視点で「卑怯者」「嘘つき」と一方的に断罪するのも、「みんながドーピングしていたなかで優勝したのだからやはり一番強かった、偉大な選手だったんだ」と祭り上げるのも、いずれもあの時代の選手のおかれた境遇というものを考えようとしていない…
(まあ、戦前とロードレースにおけるEPO全盛期と考えられる1990年代、200「0」年代とでは、経ている年月は全然違いますが、同時に、大量の死者と殺人者を生み出した戦争と、何人かの選手が就寝中に死亡し、観戦者が「騙された」と感じた程度のドーピング問題とでは、人間社会に対する犯罪性という面でもやはり比較にならないでしょう。)

さて、USADAがランスを告発した直後は感情的なランス擁護記事を連発し、ランスが告白すると見事な手のひら返しを行ったCyclingtime.comさんですが、1998年のツールのサンプル再検査で多くのEPO陽性反応が出た問題についてはこんな記事を書いています。まあ、相変わらず感情的で大人げない感じなんですが、この記事を書いた方は、そもそもこの当時はEPOの検出技術が確立されておらず、ドーピング検査でEPOが検査されるようになったのは2000年からである、という基本的な事実関係すら理解されていないのではないでしょうか…?